残り香の死
序
妻が家を去ってもう一五年の月日が経つ。
妻とはお互いが二十五歳の時に結婚した。元々イギリスの子爵の娘として暮らしていた妻は、日本で大手企業のエリートではあっても一般人より少々お金がある程度の男に嫁ぐなど、無理な話だったのだ。今までできた自由な暮らしを制限され、家事などしたことが無かった彼女はそれでもなんとか1半年は耐えていたけれど、余所に男を作って出て行ってしまった。妻の欄のみ記入された離婚届けと子供を残して。
そもそも彼女は三ヶ月たった頃にはこの生活に飽き飽きしていたのだろう。しかし、彼女の腹の中には新しい命が宿っていた。両家の親からは長く続かないだろうとずっと反対され続けていた結婚だったけれど、子供ができたからと言ってだらだらと付き合っていた二人はようやく夫婦となった。
息子が生まれたのは、結婚してから五ヶ月後の秋だった。お互い下の兄弟もおらず、子育てに悪戦苦闘したけれど、それでもまだ家族としてやっていけると思っていた。お互いに子供が出来たからといって愛情が薄れたりなどしなかったし、親友からもとても仲の良い家族だと言われる程で、彼女が自分の元を去ることは無いとどこかで思っていた。実際は子供の乳離れとともに出て行かれてしまったのだけれど。愛はあったけれど、この頃子供が出来たこともあり、仕事も忙しくなって家に帰るのが遅くなりがちになっていたから彼女に寂しい思いをさせてしまっていたのかもしれないと、月並みな妻に出ていかれた夫の気持ちを今になって感じてみたりしている。
残された息子は聡い子で、母が出ていったことにはすぐに気がついたらしい。数時間母を求めて泣いたけれど、しばらくして泣かなくなった。変わりに、絶望を感じていた私を慰めるように彼は笑いかけてくるようになった。そんな彼に感謝して、元妻が好んで飲んでいたミルクティーに、息子の好きな蜂蜜を混ぜて出してやってからは、それが息子の好物となった。
それからは息子を保育園に入れ、仕事と育児の両立だ。専業主婦だった私の母は快く息子の面倒を見てくれるようになり、息子は小学生、中学生とすくすくと育っていった。
歳を増すごとに美しかった母に似てきた息子。髪色は父親の自分に似たようで黒いが、瞳は母のエメラルドグリーンで、顔立ちもどこか彼女に似ている。時折息子の中に元妻を見て、寂しさを覚えていた。
息子が高校に上がった年の春、私の母が亡くなった。息子は自分のことは自分でするようになり、男二人の暮らしが始まった。
息子は母親も母親代わりだった祖母もいなくなり、昔から甘える子ではあったが、更に甘えるようになっていった。何かあればパパ、パパと高校生であるのに呼んでくる。その態度に少し心配した次期もあったが、可愛い息子に甘えられて嫌な親など居るだろうか。そうして、甘え、甘やかす生活が始まっていった。
第一章
窓の外で蝉が五月蝿く騒ぐ。風が木立を揺らし、森の中に立てられたコテージの周りでざわざわと葉を擦り合わせた。青々とした葉の隙間から降り注ぐ光が眩しい。
夏休みの間だけ毎年来ているコテージは、周りを森で囲まれ、人目に触れる事のない造りになっていて、息子と二人、のんびりと過ごすのに丁度良い。今日はここに来てから2日目だ。予定ではあと一週間程ここで過ごすつもりで、程よく光の落ちるテラスで読書に耽っていた。
「ねぇパパ、川に行きたいな」
息子が私の背中に椅子越しに抱きつきながら甘えてそう言ってくる。仕方なく本を閉じ、掛けていた眼鏡を外した。行こうとも言っていないのに、近くにある息子の瞳は輝き、私の腕を取る。高校生になった息子は母に似た形ではあってもやはり男子高校生らしく瑞々しい元気さに溢れ、私は転ばぬよう気をつけながらついて行くのがやっとだ。
森の道を少し進めば、水は澄み、少し跳べば向こう岸へと着いてしまう程度の小川に辿り着いた。息子は嬉しそうに靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾を捲って川へと入っていった。川の水に当たる日の光。その光を受けた息子の脚が生白く輝く。ゆっくりと、成長した息子の肢体を眺めれば、男にしては小さく少し丸みを帯びていて、熱い日差しの中に舞う遠い過去に愛した女性がそこにいるかのような錯覚を覚えた。
「パパ、パパ、こっちに魚がいるよ」
そう言って手招かれ、靴とズボンの裾が濡れたことにも気づかずに川へと入る。まるで誘蛾灯に近づく虫の様に。背中を抱きしめれば、彼女と同じ甘い香りが漂う。細く硬い体は柔らかい彼女とは違ったけれど。
「どうしたの、パパ」
笑いながら振り向いて見つめる瞳は彼女そのものだ。間近にあるその瞳から視線を落とせば、小さな鼻の下で薄っすらと開いた幼い唇。頬に触れれば滑らかな肌触り。そっと唇に指を沿わせれば、驚いたように見開かれた瞳と震える唇。柔らかな唇の感触も彼女そのもので、愛しさが一気に溢れ出る。その唇を食べてしまいたいという欲に体は支配され、近づいていった唇は重なり合い、一つとなる。
どん、どん、と胸を叩かれて漸く自分が今何をしてしまったのかに気づき、息子を離した。頭は真っ白で、なんと息子に声をかければ良いのか分からない。驚きで固まってしまっている息子が、こちらを見つめてくる瞳を見つめ返すことができず、川面へと視線を落とした。そうすると、少しずつ気持ちが落ち着いてくる
「すまない」
暫くの無言の後、漸く出た言葉はそれだけだった。息子は傷ついた顔をしてこちらを見つめ、去っていった。その姿を見て心の中に湧いていた欲望が何であるのか、自問自答することしかできなかった。
* *
コテージに戻っても息子の姿は見えなかったが、寝室に引きこもっていることは、ドアから漏れるすすり泣きで気づいていた。どう慰めれば良いのか皆目検討もつかない。まさかファーストキスを父親に奪われるなんて、屈辱以外の何物でもないだろう。反抗期が無かったとはいえ、年頃なのだ、一番精神的に難しい頃であることには変わりない。もう一度しっかりと謝り、お前の母親と錯覚したのだと正直に弁明すればいいのだろうか。それとも、あれは家族の戯れだからあまり深く考えるなと慰めるべきなのだろうか。私は、嫌われてしまったかもしれないという最悪の可能性を意図的に排除していた。あんなに自分を好いてくれていた息子が、この事で自分を嫌うはずがない、と。
「中に入ってもいいかい」
扉の外から中へと呼びかける。
「だめ、入らないで」
布団でくぐもった声が中から聞こえ、扉にかけていた手を離す。
「じゃぁ、そのままでもいい。聞いてくれるかい」
「……良いよ」
短い返事に、ほっと息をつく。まずは、謝罪からだ。
「さっきはすまなかった。お前があまりにお前の母親にそっくりだったから、魔が差してしまったんだ。それに、父親とのキスなんて、家族同士のキスなんだから、あまり深く悩まずに機嫌を直してくれないか?そうだ、お前の大好きな蜂蜜入りのミルクティーだって作ってやるぞ」
「そんなものいらない。僕が欲しいものはそんな言葉でもないし、そんなものでもないよ」
強い口調でそう言われてしまい、どうすればいいのかが分からない。息子は何を求めていると言うのだろうか。どうすればいいのかが思い浮かばず、暫くそこに立ち尽くしていたが、一度お互いに冷静になるべきだろうと考え、その場を後にした。
一時間程経っただろうか。書斎に閉じこもって悩んでいると、扉がノックされた。ここにいるのは自分と息子だけだ。
「パパ、開けてもいい?」
「あぁ、勿論だ」
思わず椅子から立ち上がったと同時に、扉が開き、目と鼻の頭を赤くした息子がそこに立っていた。痛々しい泣き跡に、心配になる気持ちと共になぜか心がざわめいた。
「僕もごめんなさい。いきなりで驚いちゃっただけなんだ。今からでも、蜂蜜入りのミルクティー作ってくれる?」
「とびっきり美味しいものを作ってあげよう」
仲直りすることができたことが嬉しくて、息子の肩を抱いてキッチンへと向かっていった。甘い物が大好きな息子のために、いつもより蜂蜜を多めに入れてやろうと思いながら。
* *
甘い香りが部屋中に漂い、時計が時間を刻む音と紅茶を飲む音だけが聞こえる。さっきまでのことがまるで夢だったかのように穏やかでいつも通りのまったりとした時間。
「ねぇパパ」
「なんだい」
「僕のお母さんってそんなに僕にそっくりなの?」
息子の言葉に、なんと返すか迷い、彼女の容姿を思い浮かべた。白人独特の白い肌、薄いブラウンの髪、エメラルド色の瞳。思い出の中、窓辺に立つ姿はまるでビスクドールのようであった。彼女を思い浮かべながら目の前の息子を見つめる。やはりどこか人形めいた容姿は、彼女にそっくりだと感じた。たとえその性別が違っていたとしても。
「あぁ、そっくりだよ。私に似たのは髪の色くらいじゃないかと思うくらいには」
そっと黒髪を梳くように撫でれば、嬉しそうに目を細める姿は、まるで猫のようだ。
「そんなに似てるんだ、僕とお母さん」
「そんなに気になるのなら、写真を見せてあげようか」
記憶にない母に思いを馳せているのだろう息子に少し寂しさを覚えたけれど、そんなことは表に出さない。
「写真があるの?」
「あぁ、別に恨みがある訳でもないし、大切な思い出だからね。向こうに戻ったらアルバムを出してこよう」
写真には、彼女だけでなく幼い息子も一緒に写っている。そんなものを捨てるなんてできるはずがない。それに、未だに彼女には心のどこかで未練がある。
「ありがとう、パパ。そうだ。この後森の中を一緒に散歩しようよ」
「いや、今日はもう遅いからやめておこう。明日行けばいい」
「明日が楽しみだな」
嬉しそうにそう言うと、「おかわり!」とティーカップを差し出してくる。それを受け取り、また差し出してやれば、嬉しそうに笑って飲み始める。子供っぽいその仕草に、思わず頬が緩むのを感じた。
* *
コテージでの生活もあと二日。あれからも特に問題はなく過ごしていた。けれど、あの日以来息子と彼女が重なって見えることが度々あった。それは花に触れる手つきだったり、スプーンでスープを口へと運ぶ動作だったりと、日常の中のふとした瞬間だ。困ったことに、彼女と重なって見えてしまう時は、キスをしたい、体に触れたいという欲求が湧いてしまう。実の息子だというのに、これではまたキスをして泣かせてしまうかもしれない。
すぐに抱きついてくる息子から漂う独特の香りも彼女を思い出させ、誘惑してくる。
おまけに「パパ、大好き」などとも言ってくるから質が悪い。一度キスをしたことを忘れてしまっているのだろうか。いや、ただあの時のことは一時の気の迷いで生じた事故だったとでも思っているのだろう。
「パパ、一緒にお風呂に入ろうよ」
そんな事を考えていた矢先。これまで何度も一緒に風呂には入ってきていたのだから、何も不思議な事では無いけれど、今裸を見れば欲情するであろうことは想像に難くない。既に息子を性の対象として見てしまっている事には薄々気づいているのだ。
「少し仕事があるんだ。すまないが、先に入ってくれないか」
適当な理由をつけて断れば、傷ついた顔をされてしまったが、仕方のない事なのだ。それに、世間では男子高校生が父親と風呂に入りたがったりなんてしないものだ。自分もその頃には反抗期を迎えていて、絶対に一緒に入ろうとはしなかった。
「僕のこと、嫌いになったの?」
「なんでそんな事を言うんだ。嫌いになったりしないよ」
「だって、僕のことを避けているんだもの」
頬を僅かに膨らませて拗ねる様子はとても幼く、庇護欲が刺激される。
「避けてなんていないよ」
「なら、一緒に入ってよ」
「それは、無理なんだ。お前ももう気づいているだろう。私はお前の体で欲情してしまうんだ。情けないことに、お前の裸を見て我慢できる自信もない」
もう取り繕うのは止め、正直に胸の内を明かす。あのキスをしてしまった時から芽生えてしまった感情。息子には持ってはいけない肉欲を孕んだ愛情。こんな明け透けに言ってしまえば嫌がられるだろうと思ったけれど、なぜか満面の笑みを浮かべてこちらを見つめている。
「本当?パパ、それは本当なの?」
「あぁ、そうだ」
「嬉しい!パパも僕と同じ気持ちになってくれたんだ。僕もね、ずっとパパの事が好きだったんだよ。パパになら、どんな風にされてもいい。寧ろされたいと思ってるの。だからね、キスされた時すっごく嬉しかったの。なのに謝るんだもの。僕の事をそういう風には愛してくれないんだって思ったら悲しかったんだよ」
縋るように抱きつかれ、首の後ろで絡めるように手が交差する。その動きはまるで男を誘う女の様に二人の距離を縮める。
「ねぇパパ。触って?」
手首が掴まれ、誘われるがままに服の中へと手を入れていく。手に馴染む滑らかな肌は触り心地が良く、気持ちが良い。脇腹を辿るように下へと撫でれば、少し体を震えさせてから「擽ったい」と言って笑う。
掌から伝わる熱は体中に伝染して行き、脳を痺れさせ、楽しそうに笑う声が脳内で木霊する。もうその体に触れることしか考えられなくなり、もう一度あの柔らかな感触を楽しもうと、また吸い寄せられるかのように、白い雪原の中に咲く薔薇のごとく赤い唇へとキスを落とした。
* *
カーテンの隙間から覗く陽の光の眩しさに目を細めた。全身に心地よい疲労感が残っている。腕の中で眠る息子を起こさぬようそっと腕から枕へと移してやり、ベッドサイドに置いた水差しからコップへと水を注ぎ、枯れた喉を潤した。夜のうちに籠った熱い空気を逃がすため、両開きになっている窓を勢い良く押した。外の空気も涼しいとまではいかないが、心地よい風が頬に当たる。
「ん……パパ?」
目が覚めたのか、背後のベッドから声がかかる。すぐにベッドへ引き返し、瞼へと目覚めのキスを送る。そのお返しにと近くにあった手を取られ、甲に口づけされる。その瞬間に朝の風が吹く清々しかった空間は熱を孕み始める。
「パパ、もう少し寝よう?」
「今日はどこにも遊びに行かなくても良いのか?」
「うん、パパとこうしていられる方が幸せだもの。いっそ明日の帰る頃までこうして一緒に寝ていようよ」
そう言って布団へと戻った私の体に脚を巻きつけてくる。まるで娼婦のように誘うその手管はどこで身に着けてきたのだろうか。もしかしたら気が付かぬうちに遊んでいたのかもしれない。そう思うともしかしたら彼も若い金持ちの男の元へと去っていってしまった彼女のようにいつか自分の元から去って他の誰かを愛するようになるのではないかと考えて、嫉妬心を抱き始めている自分に気がついた。息子の事を思うのならその方が良いというのに。
「お前は、私の元から離れないでくれよ?」
「おかしなパパ。僕がパパから離れることなんて無いよ。だってずっと僕はパパのことが好きだったんだもの。パパも同じように僕のことを愛してくれているのにどうして離れたりしなきゃいけないの?」
さもそれが当たり前であるかのように言ってくる健気さに、胸が熱くなった。
そんな事よりも早く、と誘うように唇へとキスを落とされ、会話は途切れる。本当にこのベッドの上で腹が空くまで睦み合うことになりそうだ。
第二章
二人は一週間のバカンスを終え、自宅へと戻ってきた。避暑地の涼しさが懐かしくなる程の熱気は、クーラー無しでは過ごせない程だ。それでも二人は共に家にいられる時は寄り添い合い、互いを補うように求め合った。
帰って来てから一週間程たった頃、アルバムを見せる約束をしていたことを思い出し、リビングのソファに二人並んで座りながら、覗きこんだ。
「わぁ、これ僕だよね?」
アルバムの1枚目から数ページに渡って誰かの腕に抱かれた赤ん坊が写っている。
「そうだよ。彼女は……あぁ、ここにいた」
そう言って示されたのは、病院から退院する時に撮ったもののようだった。赤ん坊を抱いた日本人に囲まれた外人女性は、少し気が強そうな女性だった。確かにどこかで見覚えのあるような顔だと感じた。それはきっと鏡で見る自分で、でも目元はここまできつくは無いから、父の遺伝だろう。髪の色以外にも大好きな父との共通点を見つけて、嬉しくなった。それと同時に、それ以外はそっくりな女性に、嫉妬心を抱いたのだけれど。父は自分では無く彼女を見ているのだというのは分かりきったことだったから。
「綺麗な人だろう?お前も母親に似てとても綺麗だ」
それは褒め言葉なのだろうが、素直に喜ぶことはできず、ただ「ありがとうパパ」と返すことしかできなかった。父の中での自分が母の変わりの存在であるという事実に、目を背けたくて仕方がない。一方の父は、彼女の美しさに天使のような愛らしさを持つ息子に既に強い執着心を抱いており、写真を食い入るように見つめる息子を見て、彼女に息子を取られてしまうのではという不安に駆られていた。
* *
それから季節が二つ進み、別れた妻への執着は薄れ息子への愛着が強くなって来ていた頃。会いたいと思っていたわけでも無いのに、偶然というものはあるようだ。
「あっ」
人でごった返すクリスマス前の街中。たまたま肩がぶつかり合い、「すみません」と言って去ろうとした時に声を上げたのは彼女だった。その声にぶつかった相手の顔を見て、やっかいな人物にぶつかったと心中でため息を盛大につく。
「元気にしてた?」
「出ていったくせに第一声がそれか」
昔と変わらずに美しい人だった。少々小皺が増えていたけれど、それでもまだまだ一人の女である彼女。
「それもそうね」
真っ赤なマニキュアに彩られた指先が彼女の長い髪を払いのける。思わずそれに見入って一瞬夢の世界に入ったような気分になった。漂う甘い香りは、彼女や息子からしていた良い香りではなく、人工的に作られた香水の強い香りだったけれど。
「ねぇ、このあと時間ないかしら?」
視線に気づかれたようで、彼女は妖艶に誘う。全く、どの口がそんなことを言うのかと思った。彼女に未練もなくなっていたし断ろうと思ったけれど、息子のことを聞きたいから付き合ってと強引に誘われ、一時間だけと了承した。
「そこに入ろうか」
近くに見えたチェーン店のコーヒーショップを指させば、彼女はクスクスと笑ってくる。
「相変わらず庶民思考なのね」
「これでも前よりは大分出世したよ」
そんな軽口をしあってから、寒さに震えて温かいであろう店内へと向かった。
* *
クリスマスソングの流れるコーヒーショップで話しをし、三十分程が経つ。会話は途切れがちになり、カップの中も殆ど空になってしまった。彼女にあまり息子の魅力を語ってしまって連れて行かれてしまったらと思い、最近の写真を見せて軽く最近のことを話すに止めていたせいもあり、早々に話題が尽きてしまったのだ。付き合い始めた頃、彼女とはどんな話をしていたのかすら、もう思い出すことは出来なくなっていた。彼女が思い出したようにしてくる質問にただ答えるだけの時間となり、さて、どうやって立ち去ろうかと考えていた頃、彼女が誰かを見つけたようで窓の外を見つめた。
「噂をすれば影、ね」
そう言った彼女の視線の先には彼女とそっくりな男子高校生。見覚えは勿論あった。今では思考の殆を彼で占めてしまっているのだから。向こうもこちらの二人に気づいたようで、驚いた顔をしてからどうすればいいのだろうと戸惑った表情を見せた。
「すまないが、同席させてもいいか?」
「勿論よ」
彼女の返事を聞いて手招く。少し迷った様子のあと店内へと入ってきた彼は、無言のまま自分の母へと会釈した。
「まぁ、まぁ!こんなに大きくなったのね。私にそっくりだわ。貴方は覚えていないでしょうけれど、貴方の母親よ。彼から写真を見せてもらったのでしょう?分かるわよね?」
「なんで、パパがこんな所にいるの?」
話しかけてくる母親には答えず、父に問う。自分と恋仲であるというのに、出ていった元妻とこんなところで密会しているなんて、思いもしていなかった。
「彼女とはたまたまそこであったんだよ」
そんな偶然が果たしてあるのだろうか。こっそりと連絡を取り合って会っていたのではないかという疑念は消えない。悔しいけれど自分には無い女らしさを持った華やかな人は、かつて大好きな父の最愛の人であり、偽物ではなく本物だった。
「私、貴方のことはずっと気掛かりだったのよ?あの時貴方も連れて行ければって」
「僕はパパの側に居られて幸せだよ」
寧ろ、父と引き離されていたらと思うとぞっとした。父の方も、もしも彼まで一緒に自分の前から消えていたら等考えたくもないことだった。
「あらまぁ、随分お父さんっ子になったのね。でも、いつか私が恋しくなったら、ここに連絡を頂戴。今はイギリスに住んでいるのだけど、たまに仕事でこうして日本に帰ってきている時もあるから」
鞄の中から名刺を一枚取り出し、息子の手に渡される。それを拒むこと無く息子が受け取ったことで、父の中で不安がまた一つ大きくなっていった。
時計を見れば、一時間が丁度経った所だ。
「そろそろ行くよ。もう会うことも無いと思うが、元気にやってくれ」
そう言って伝票だけ持って店を後にした。息子に重ねて見ていた過去は完全に消え去っていった変わりに、彼の中に暗い闇が生まれはじめた。それは、彼にだけでは無いことであったのだけれど。
* *
家に着き、暫く無言でいたけれど、ソファにいつものように並んで座ると、落ち着かなくなってくる。聞いてしまえば、彼女に取られてしまいそうで、その決定打を二人共聞きあぐねていた。
「本当に、たまたま街中ですれ違っただけだったんだ。お前のことを聞きたいと彼女が言うから、一時間だけと言って話していたんだよ」
「そうなんだ……」
「あぁ、だから、彼女とは久しぶりにあったし、連絡先も知らないよ。お前は貰ったみたいだったけれど」
その言い方に、父も彼女の連絡先を知りたかったのかと思い、切なくなった。強引に掌に押し付けられた名刺をとっさに受け取ってしまったのは、もしも彼が自分の元から居なくなってしまった時に一番に探さなければならない場所だと思ったから。どんなに愛を確かめ合っていても、自分が二番手である以上、彼女の存在は脅威でしか無かった。だから、父がそのことに嫉妬しているなどとは気づかなかった。
「パパ、僕のことを置いてどこかに行ったりしないでね」
腰に細いしなやかな腕を回し、抱きついた。それが今言える、精一杯の遠回しな言葉だった。条件反射のように、甘えるように腰に押し付けられた髪を撫でる。そこから香る香りはもう過去の彼女ではなく、彼のものとなっていた。戯れるように指と指を絡め、見つめ合う。言わなくてはいけない事など、既に頭の隅からも追いやられてしまっていた。
* *
彼女に電話をしたのは、最愛の父ともう絶対に連絡を取って欲しくなかったからだった。母親なんていらない、それはただの障害でしかなかったから。今更二人の間に入って来る邪魔者でしか無い。恋人になれた切っ掛けは彼女だったとしても、それは変わることは無いことである。
「もしもし、お母さん?」
「あらまぁ!本当に掛けてきてくれたのね。なぁに?こっちに来たくなったの?貴方なら、いつでも大歓迎よ」
「お母さんが捨てた、パパの子供なのに?」
「あの人のことはね、嫌いじゃなかったのよ。今でもまだ恋心は彼のところにあるかもしれない。けれど、私には愛があるだけじゃ贅沢のない生活に耐えられなかった。ただそれだけなのよ。だからね、彼との間にできた貴方のことは、凄く愛しいのよ」
今更そんなことを言ってくる女の浅ましさに、これが自分の母なのかと思って嫌気が差す。しかも恋人のことをまだ好きだと言ってくるのだ。やはり早めに手を打っておいて良かったかもしれない。だって、彼が彼女と縒りを戻してしまったら、自分の入る隙など無くなってしまうのだから。
「ううん、違うんだ。貴方の所に行きたいわけじゃなくて、もう僕達親子には関わらないで欲しくて。この前も言ったように、僕たちは今二人で幸せに暮らしているの。それの邪魔をして欲しくない。僕たちは今、愛し合っているから。許されない恋であることは百も承知だけれど、お互いに本気で好き。だからもう僕のパパには近づかないで」
はっきりと告げれば、電話越しに息を呑む声が聞こえた。
「パパはもう貴方のものではないし、僕も貴方のものじゃない。僕たちは僕たちのものだ。それだけ伝えたくて。僕を産んでくれて、パパと出会わせてくれてありがとう。じゃあ、もう生きて会うことも無いと思うけど、お元気で」
父と同じように別れの文句を言って、何か言い募ろうとしていた声を無視して電話を切った。それでも心のもやもやは晴れなくて、どうすれば父をもっと自分だけのものに出来るのだろうと言う事だけを考えて。
「永遠に、僕だけのパパでいて欲しいんだ……」
* *
深夜、腕の中から温もりが消えていることに気づき、慌てて起きた。リビングから光が漏れ出しており、トイレにでも行ったのかと思いベッドに戻ろうと思ったところで、話し声が聞こえた。しっかりと部屋を覗きこむと、探していた彼が電話をする姿が目に入った。会話は声を潜めてしまっていることもあり、あまり聞き取れない。けれど、彼の手に握られた紙切れで誰に電話しているのかは分かってしまった。そもそも彼が今電話をかける相手など、彼女以外にはいないだろうけれど。
こんな夜中にわざわざ寝たのを見計らってかけているということは、昼間ああは言ったけれどやはり母が恋しかったということなのだろうか。父であり恋人の自分よりもずっと側に居なかった母の方が大切だというのだろうか。そんなことを考え始めると、嫉妬心はまた膨らんで行く。
「私だけの、愛しい……」
呟いた言葉は空気となって消えて行く。そこには、嫉妬に狂った一人の男がいるだけだった。
* *
受話器を置き、さて父の元へ戻ろうと振り返ると、寝ているはずの彼がリビングの入り口に立っていた。悲しみを感じる表情には少しの狂気が混じっている。
「誰に電話を掛けていたんだ?まぁ、問うまでも無いことか。私に隠れて彼女と電話していたのだろう?そうやってお前も私から離れていってしまうのだな。お前が私を魅了して離さなくしたと言うのに、そんな所まで似てしまったのか」
亡者のようにゆっくりと歩む姿は少しの恐怖を与えたが、それでも愛しい人の姿であり、その手がテーブルに置いてあった果物ナイフを手に取ろうとも、恐怖心が増すどころか、少しずつ恐怖心は薄れていっていた。しかし足は生存本能が働いたのか、一歩引いいていた。背中が電話台に当たり、カチャンと受話器が外れたような音がしたが、そんなことに意識を向けてはいられなかった。
「パパ、待って」
語りかけても、歩みが止まる事はない。迫る父から逃げるように、ソファとテーブルを挟み対局する二人。一歩、一歩と近づき後退る息子を追い詰めて行く。自分から離れようとする姿が、更に彼が消えてしまうのではないかという猜疑心を呼び起こし、ナイフを握った掌に力が籠った。
「僕だってパパを置いて行ったりなんかしないよ。パパと僕はずっと一緒なんだから。あの人には、もう僕たちに関わらないでって電話していただけなんだ」
云い募っても、もう言葉は聞こえていないかの様。目はただただ息子だけを見つめ、周りの様子など目に入っていなかった。
「私以外を見ようとする目はくり抜いてしまおうか。私以外に触れようとする手を切り落としてしまおうか。私の元から去ろうとする脚は切り落としてしまおうか」
そう言いながら一歩ずつ近寄られ、後退った足はソファに当たり、仰向けに倒れこんでしまう。それに覆いかぶさるように圧し掛かり、ナイフを振り翳す。尖った刃は、彼の左側のエメラルドにあと少し、どちらかが動いてしまえば突き刺さってしまうという距離。けれども、突き付けられたナイフに瞼を閉じて命乞いをしない彼に、刺そうとした手に戸惑いが生まれた。その隙を見て、ナイフは顔の横辺りに逸らされる。
「もしもパパが僕の目をくり抜いてしまったら、僕はもうパパを見ることもできなくなってしまう。もしもパパが他の者に触れるのを嫌ってこの腕を切り落としてしまったら、パパを抱きしめることも、戯れのように触れ合うこともできなくなってしまう。もしもパパがこの脚を切り落としてしまったら、もうパパに駆け寄って行くこともできなくなってしまう。それでも、僕の体を思うがままに傷つけたいとパパが望むのなら、僕は大人しくここに横たわっていることもできる。そのくらい、パパのこと愛しているというのに、信じてはくれないの?」
下から涙を湛えながらも猶強い瞳を向けられ、気づけば握りしめていたナイフはソファの上に落としていた。波が静かに引いていくように昂った感情が冷めていく。先程まで自分で考えていたことの恐ろしさがじわじわと体を蝕む。
「……すまない、怖い思いをさせたな」
涙のせいで頬に張り付いた髪をそっと横に払ってやる。その表情はもういつもの彼に戻っている。
「ううん。パパがそこまで僕のことを愛してくれているんだって分かったから、嬉しくって泣いちゃったんだ。だって、僕と同じように愛してくれてるって分かったんだもの。僕はパパを置いて行ったりしないよ。パパが一人で遠くに行っちゃうのだって許さないから」
二人の唇が、重なっては離れる。息子の右手が父の胸に当てられ、生を伝えてくる。その脈動にうっとりとした顔を見せ、その手は首の後ろに回り、口づけをより深いものとした。呼吸が乱れ、息苦しくなろうとも、お互いに離れようとはしない。息子から得られる甘美な口づけに夢中になり、なにも見えなくなっていく。
「それにね、パパ」
口づけと口づけの合間、少し唇が離れた時、そう語りかけて来た息子を見た。と同時に、背中から胸にかけて鋭い痛みが走る。何が起こったのか分からぬまま目を見開き、息子の上に倒れ込んだ。
「こうすれば僕たちずぅっと一緒にいられるでしょ?」
息子の左手は、父の背中に突き立てられたナイフをゆっくりと引き抜かれ、息子の白い喉元に突き付けられる。当てられた刃に沿って赤い線が浮かび上がり、最期に肉を突き刺した音が部屋に響いて、リビングは静まり返った。
あとがき
卒業制作の方ではこれにもうちょっと続きを書いていましたが、文字数合わせだったので、省きました。
森.茉.莉さんの、『枯.葉.の.寝.床』『甘.い.蜜.の.部.屋』を足して二で割ったような作品になっていればいいと思います。